休職中ケアマネのゆるい暮らし

46歳男性既婚ケアマネがいろいろあって適応障害の診断を受けて仕事を休んで家にいる日常を綴ります。男性でそこそこがんばってきて、そこそこの年齢で、いったん立ち止まった人と共感できればいいなと思います。

恩について

5月27日

久しぶりにむかし通っていたラーメン屋に行ってきました。

そこは自宅から一番近い飲食店なのですが、いままで食べたラーメン屋の中でも上位群に入るおいしいラーメンが食べられる店で、そんないい店がたまたま自宅の最寄り飲食店でしあわせだ、というおはなしです。

そこはラーメンもおいしいのですが、じつはビールがおいしいのです。

ジョッキはいつも冷凍庫から出してくれ、ほかの客も頼むので樽の回転も速いからいつも新鮮で、サーバーの洗浄も完璧で、へんな香りがしたことなど一度もありませんでした。

コロナ前ですがたまに海外旅行に行ったりして、そんなクオリティのビールなんて、日本以外ではいいホテルのラウンジとかじゃないと飲めないということに気づけるようになりました。

そんなわけでそのラーメン屋はビールがおいしいしつまみもおいしいので、キングダムの新刊が出るとそこのカウンターで読みながら飲み、ダラダラしきったところでラーメンで締める、というのが私のゴールデンコースになっていました。

とくに介護士時代に夜勤明けに飲むビールは本当においしく、夜勤も夜が明けて終盤になってくると、とにかく平穏に退勤してそのラーメン屋に直行することしか考えていませんでした。

2008年に、結婚4年目にしてようやく子を授かり、その日の晩にひとりで飲みたくなり深夜にふらりと来たのが初めての来店だったと記憶しています。しんみり自分も親になるのかあ、とか思ってたっけな。

翌年に子を亡くした夜もそのラーメン屋でひとりで飲みました。

それからヨメが心のバランスをくずして食事なども作れなかったときは、仕事おわって自宅に帰ってもなにもなかったので、そのまま玄関ドアを閉めてそのラーメン屋で晩ごはんを食べていました。週5くらい行っていました。いま考えると多すぎますよね。毎回ビールやハイボールを飲みたいだけのみ、ラーメンを食べて、およそラーメン屋で払うような額じゃない額を支払って、家では寝るだけでした。

でも仕事がおわってヘトヘトで、帰っても食べるものがなかったので、命をつなぐために何か食べなければならず、仕方なかったのです。

栄養や体重増加のことなど考える余裕はありませんでした。ヨメは泣くか寝るか食べるかしかできなかったし、子どもを亡くしたらそりゃそうなるだろうなあと思ったし、でも自分は翌日の勤務に備えて食事は必要だったからです。

そんな生活が2018年まで続きました。よい心療内科さんとの出会いがあり、よいカウンセラーさんとの出会いがあって、少しずつ状況が好転してきたのです。

いまではヨメは作業所に通えるようになり、帰ってきて夕食を作ることもできるようになりました。まるで夢のようです。だからそのラーメン屋に夕食に通うことはほぼなくなりました。でもときどき食べたくなるので、昼間なら行けるのでときどき行きます。

年齢のせいか、ちょっとキツくなってきたw
今日の昼も行ってきて、いつも通りビールを飲み、ラーメンを食べてきました。

まちがいなく、しんどい時を支えてくれたラーメンです。

介護の仕事でしんどい時はモチベーションになってくれました。

ヨメのことでしんどい時は夕食として胃袋を満たしてくれました。

ラーメン屋さんでも会社勤めでも、自分はいろんな人に支えられているなあと強く思います。言葉になおすと感謝、という単語になるのでしょうが、人と人との関わり合いの中で助けられてばかりです。

いつかじぶんは誰かを助けることができるのでしょうか。恩を返すことができるのでしょうか。全くもってわかる気がしません。その日その日を誠実に生きることしかできないのです。

ラーメン

豚骨醤油

心療内科

子を亡くした父親

恩返し